代表からのメッセージ

■代表・大森重美の思い

 JR福知山線列車脱線事故に関わる裁判では刑事責任が問われましたが、元社長は無罪(確定)、そして歴代3社長も、一審判決では無罪となっています。これだけの大事故であっても、経営幹部の責任は誰にも問えていないという現実があります。福知山線事故は、多くの要因が絡み合って発生した、大規模な組織事故です。そうした要因を生んだ組織の責任部署は、多方面に分散しています。JRのみならず、会社機構はますます巨大化しており、他の業種でも、福島第一原発事故のように多くの部署にまたがる組織事故が増えています。


 福知山線事故の刑事裁判では、所管部署が錯綜する巨大組織が発生させた組織事故を裁くことは困難であるという、現在の司法の限界が明瞭になったと言えるでしょう。事故に関する裁判は「具体的予見可能性説」で裁くのではなく、「危惧感説」で裁くべきだと思います。そして、「組織の責任を問える法制化」の必要性を痛感しています。
私は、現在の司法はどうなっているのかを、二つの裁判の傍聴・被告人質問・意見陳述などを通して、見極めようと心がけてきました。有罪と無罪の2方向を睨んで、二つの裁判に臨んできましたし、検察官役の指定弁護士とともに、私なりに3社長に罪を科することができるよう努力もしてきました。
 そうした経験をとおして、私は法律の専門家ではなく一市井の者ですが、現在の司法に関しておかしいと疑問に思う点がいくつも出てきました。

 第一に、不同意制度に納得できないという点です。事前に弁護側が「不同意」とした証拠資料は、裁判官が認めれば法廷に取り上げられない制度はおかしいと思います。私は山崎裁判の時、事前に検察調書のすべてを閲覧していますが、「曲線の危険認識」に対して有効だと思われる資料のほとんどが不同意として審理の対象から外されました。司法は、被告人の事情ばかりを斟酌せず、もっと被害者や市民に配慮すべきです。
 私は、航空・鉄道事故調の情報漏えいなどの問題を検証したチームのメンバーの一人として、事故調が作成した事故調査報告書の内容を再検討しました。その作業の過程で、390名の運転士に対して、事故発生曲線部の危険認識などを問う、実名を記入してのアンケート調査を実施しました。運転士も、実名を記入して、それ相応の覚悟で答えてくれました。これは法廷証言などよりずっと真実味があると確信しています。この資料が不同意となって公判に取り上げられなかったことは、非常に残念でなりません。裁判官も、一度このアンケート結果に目を通していただければ、「曲線部の危険認識がなかった」という3社長側の弁明を是として進行されているこの裁判が、いかに実際と大きくかけ離れているかを認識いただけるのではないかと思います。


 第二に、組織事故において、個人の罪を問うことの限界が見えたということです。1人だけの責任ではなく、5人とか10人とかの関与する者がいて、それぞれが事故原因に20%とか10%の責任があった場合、1人1人には100%の責任がないから裁判では無罪となる。疑わしきは罰せずで、明確に責任を立証できない者は無罪となり、その結果、組織内において誰も刑事責任を問われるものはいなくなる。これが法治国家の裁きと言えるでしょうか。私は、二つの裁判に参画し、傍聴・被告人質問・意見陳述を行いましたが、これでは個人の罪は問えない、と確信しました。司法は「疑わしきは罰せず」ですが、安全管理においては「疑わしきは対応する」のが当たり前です。根本的に考え方が違うのです。
 殺人事件と事故に関する案件を、同一の考え方で裁くのには無理があると思います。そして、個人が認識していたかどうかの立証は、非常に困難です。「知らぬ存ぜぬ」を押し通した方が罪に問われない可能性が高いのです。つまり、職務怠慢な人間であればある程、危険認識などないから無罪となってしまい、まじめに安全を考え、リスク認識を持っている者ほど罪に問われることになってしまうのです。現在の日本の無責任社会は、このような司法判断が増長させているとも言えるのではないかと思わざるを得ません。実社会の現状に合わせて、司法も変わっていくべきだと思います。


 第三に、具体的予見可能性説と危惧感説についてです。3社長の一審判決は、3名は事故の具体的な予見可能性を認めることはできず、曲線へのATS整備を指示するべき注意義務があったとは認められないとしました。そして、いずれも犯罪の証明がないから無罪としたのです。
 安全管理の本質を理解せず、職務怠慢で安全対策にまともに取り組んでいない者を良しとする、この無罪判決が情けなくてたまりません。このような無罪判決が続けば、JR西日本のみならず、他の鉄道事業者も司法を舐めてかかるようになり、鉄道会社の経営幹部が安全と正面から向き合うことをしなくなるのではないかと思えて仕方がありません。大事故を起こした組織あるいは担当責任者の責任が問われない、これが本当に法治国家の姿なのか、裁判の役割に疑問を感じています。社会が要請する安全と、法律が守ろうとする安全との隔たりを強く感じさせます。
 3社長の無罪判決の理由は、過去に起きたことのない事故であり、その発生を事前に予測できなかったということです。しかし、過去に起きたことのない事故でも、「危惧感説」で判断すれば、有罪になります。古川元晴先生によれば、過失犯の規定の解釈については、二つの考え方があるとのことです。一つは「具体的予見可能性説」であり、もう一つは「危惧感説」です。
「具体的予見可能性説」は、事故発生の危険を具体的に予測できることが必要であるとする説です。そして、具体的に予測できると言えるためには、過去に同種の事故が起きたことがあり、事故の発生が確実に予測できるものでなければならないとのことです。そうすると、確実に予測できない事故はいかなる大事故であっても罪には問えないことになってしまいます。一方の「危惧感説」は、その業務が持つ危険性などの性質によっては、より高度の安全義務が課され、起きたことのない不確かな危険であっても、起きうることが合理的・科学的に危惧される危険については予測すべきであるとする説です。重大な危険性を有するものなど、業務の性質によっては「想定外」では済まされず「万が一にも事故を起こさないよう最善の回避措置を講じる」という安全義務が課される場合がある、とする説です。
 福知山線列車脱線事故裁判で、山﨑元社長や歴代3社長が無罪とされたのは、「危惧感説」ではなく、「具体的予見可能性説」によって、予測すべき範囲が確実なものに限定されたたためです。また、成立要件が厳格であればあるほど望ましいということになると、過失犯の成立範囲はどこまでも縮小してしまうことになるでしょう。「具体的予見可能性説」の「具体」性も、実際には解釈に相当の幅がある概念なのに、JR函館線でまったく類似の脱線事故がすでに発生していたことも、裁判所は確実な予測の根拠としては不十分であると切り捨てて、具体性の範囲を極限と言えるほどに縮小して解釈しています。
 その結果、一般の常識とまったく違った判断になっています。民間企業は危険な業務を行う場合、「具体的な予見可能性がなければ事故が起きてもしかたがない」というような考え方で事業を展開していません。万が一にも事故が起きないよう、あらゆる事態を想定して対策を行っています。安全上の「予見による認識」とは、100%ではなく、50%から70%程度の確率で判断するものです。今回の3社長裁判において、「曲線における危険認識」は50%から70%程度はあったと認めるべきです。まったくなかったと言うのは不自然です。少しでも認識があったとしたら追及されるため、防衛線を張っているだけとしか思われません。安全に関する事故は「具体的予見可能性説」ではなく、社会一般の常識に近い「危惧感説」で判断するべきです。


 第四に、組織を罰するための法制化が必要と考えます。乗客106人が死亡し、500人以上が負傷するという大事故であっても、直接の原因者(運転士)だけの責任となり、会社あるいは役員の責任は問えていません。
 現在の日本では、業務上過失致死傷罪において、個人責任は問えますが、組織責任を問う法律の条文は存在しません。ですから、組織の責任は原則として問えません。山崎裁判の判決では、「組織としての鉄道事業者に要求される安全対策という点からみれば、本件曲線の設計やJR西日本の転覆のリスクの解析及びATS整備の在り方に問題が存在し、大規模鉄道事業者としてのJR西日本に期待される水準に及ばないところがあったといわざるを得ない。」としていました。
 組織として安全管理が低レベルだったことが、事故発生の一因であったとは認めていますが、判決としては組織責任は問えていないのです。3社長裁判においては、裁判長は最後に「誰1人として刑事責任を問われないのはおかしいと思うのはもっともだ。しかし、個人の刑事責任は厳格に考えなければならない」と述べ、暗に現在の司法では、これが限界だと認めていました。

 早急に司法の考え方を変える必要があります。このままでは、特に組織事故に関する刑事裁判においては、経営幹部・役員の責任を追及することは困難です。もっと厳しく幹部の責任が問えるよう、司法の裁き方を改める法改正をする必要があります。
 これまで山崎裁判と3社長裁判に関与してきて、組織を罰する法制化の必要性を痛切に感じています。組織を罰する法律は、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツなどの諸国には、組織罰はすでに存在します。すなわち、個人に責任がなくても、組織の責任を問えるとするもので、日本でもこれを早急に創設しなければなりません。これが実現すれば、会社の決定権を持った役員の責任を問い、プレッシャーを与えることが可能となり、組織は根本から変革され、組織事故の再発も防止することができるのではないかと強く思っています。

〔この「思い」は、JR福知山線列車脱線事故に関わる歴代3社長の刑事裁判(控訴審;大阪高等裁判所)における「心情等に関する意見陳述」(2014年12月12日)の場でお話しした内容を加補筆したものです。〕